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くりはら田園鉄道鉄道 くりはら田園鉄道線
石越 【次の掲載駅】 沢辺
若 柳 Wakayanagi
 ●1994年8月 栗原電鉄当時
【購入日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 番号:1999。あと1番ずれていたら…とは思うが、この場合に"たら・れば"を言っていたらきりが無い(笑)。
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 島式ホームに掲示されていた駅名標。
 当駅は2面3線のホームを持っていたが、特に何番線という表記はされていなかった。普通でいうなら3番線に当たる場所には(左・細倉側)M181+C152(右・石越側)の編成が停車していた。この写真だとC15形の非運転台側の連結面側の様子がわかる。非運転台側は切妻で、その妻面にはバス窓が3組配置され、ヘッドライトのようなものは無いがテールライトが下部両端に計2灯あることが判る。
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 
話によると、くりはら田園鉄道廃止後にくりでんミュージアムを同地に整備する際、似た構造であった沢辺駅の駅舎を一部利用して当駅駅舎を補修したという。現在の駅舎は黒色系のシックな外観となっている。
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 窓口の様子。出札口、手荷物・小荷物受付口の表示の手書きもさることながら、もえるごみの表示も手書きである。ガラス窓はすべて木枠で、さらにレトロ感が増す。一方で白い壁部分にはほぼ掲示物がなく、すっきりとしている。窓口横には記念乗車券類の表示がされていたが、これがすべて売り物ではなくて、一部過去に販売されたものを展示物的に掲示されていた。
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 駅構内側から改札口を見たところ。写真では見にくいが、ラッチの向こう側の壁に駅名標が掲げられていたことが判る。
 駅舎側のホームは改札口前から石越(写真奥)側はホームの高さが低く、撮影位置の背後(細倉)側に緩いスロープがありその先に電車が発着していた。改札を出たところの目の前、写真左下にちょっとだけ見えるコンクリートは構内踏切で、渡った先の石越側に2面2線の島式ホームがあった。この写真で見ると構内踏切とホームとでかなり高さがあるように見えるが、実際には普通の階段1ステップ分の段差しかない。ただ当時は若柳で列車交換する定期列車というのは無かったのではと思うので、旅客として構内踏切を渡ることもほぼ無かった可能性がある。

 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 駅に到着する細倉マインパークゆきのM153。この写真だと石越側の駅舎側ホームがかなり低いことがよく判る。勿論ここでは旅客営業列車は停車しない。
 ちなみに運用上の編成交換は、当駅で乗客を乗り換えさせるということはせず、石越-若柳 間を回送させることで行われていた。

 ◆写真の列車情報◆ M153 (時刻不明) 石越→細倉マインパーク前
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 タブレット交換の様子。
 若柳駅と併設されていた車庫の掲載日現在の状況をGoogle Mapを見てみると、現在敷地は「くりでんミュージアム」となっているが、敷地中央に県道185号線が南北に貫き分断されており、またかつて電車が発着していたホームの高い部分は僅かしか残っていない。となると、この写真の電車が停車している奥側半分の所あたりから奥側に、現在は道路が横断しているということになるようだ。

 ◆写真の列車情報◆ M182 1255発 細倉マインパーク前→石越
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 駅近くにあった栗原電鉄本社の建屋。一見すると昭和30年代頃に造られた2階建てアパートのような雰囲気であった。2階窓上に表示された「栗原電鉄」の文字はかつて金色に輝いていたのだろうということが想像されるが、表面の酸化は進んでいて、輝きが失われている部分が多かった。
 訪問当時の栗原電鉄は、1993(平5)年12月15日に細倉鉱山を経営していた三菱マテリアルズが栗原電鉄の経営から手を引いたことで第3セクター化された状態であった。訪問後の1995年4月1日には、電車や電気設備の老朽化を理由に電気運転を中止し、非電化のくりはら田園鉄道と社名を変えて再出発することになる。つまり私は、その合間の15ヶ月だけ存在した「第3セクター 栗原電鉄」の時代に訪問したということになる。
 会社は翌年には「くりはら田園鉄道」に改組されるわけだが、本社社屋はこの場所が2007(平19)年の会社解散の時まで使用され続けた。(※ 会社の精算は2010(平22)年終了)
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 写真車庫で休むM152。写真の右後ろにちょこっとしか見えていないのはC151である。そして後ろに建つ修繕庫建屋は大正時代のものだという。
 両運転電の制御電動車M15形(M151~3)は、1955(昭30)年の1067mm改軌時の導入された新造車で、軽量構造、室内に蛍光灯を採用するなど、当時の車輛としては最新鋭な設備や技術を備えた車輛であった。その一方で車内放送設備は廃車時まで取り付けられることはなかった。外観形状が似た、石越側のみに運転台がある制御車C15形(C151~2)については全くの新造車というわけではなく、1956(昭31)年に阪急51形の車体と西武の台車を組み合わせた組み合わせ新造車で、当初はC14形を名乗っていた。阪急51形は1923(大12)年の阪神急行電鉄時代に誕生した車輛で、高速運転を行っていた神戸線で使用されていた。1953(昭28)年から始まった51形の剛体化工事で木造車体が載せ替えとなり不要となるが、そのうち81・86の車体が栗電にやってくることになる。ただ車体長の遍歴にはちょっと不思議な部分があり、剛体化前後で阪急の15m級車であることに変わりないのだが、栗電では14m級であることを意味するC14形の名前が与えられることになる。しかも栗電に来て4年後の1960(昭35)年に木造車他の老朽化に伴い剛体化が行われ、車体長も若干『延長』されて15m級のC15形になる。(ちなみに阪急51形81・86は車体剛体化後に610系となりは635・636へ車番を変更、1980(昭55)年に能勢電鉄入り、1990(平2)~92(平4)年の間に廃車となっている。)
 栗電では年を経るごとに旅客が減り、増結用のC15形の活躍の場が減ってきてしまうが、非電化前まで車籍は残った。M15形は1995(平7)年4月の非電化直前まで職責を全うした。廃車後、M153は鉄道廃止後に若柳駅構内にできた「くりでんミュージアム」に保存されている。M152・C152はED201とともに石越駅東方にある「チャチャワールドいしこし」に保存され休憩所として使用されていたが、2018(平30)年に解体され、一部部品が「くりでんミュージアム」に保存されているそうだ。M151とC151についてはおそらく解体されて現存はしないものと思うが、2006(平18)年頃でも若柳駅構内に解体されず留置されていたようだ。
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 島式ホームにはM18形 M181が留置されていた。1991(平3)年記念切符では当時の栗電標準色をまとっていたが、訪問時はイベントカラオケ号となって、上半分が水色、下半分が淡いスミレ色で、かわいいと言うよりは若干不思議な感じを醸し出すイラストがちりばめられていた。イベント列車という予備車になったのは、福島交通からの転入車が来た後のことだという。
 元は1926(大15)年製造の武蔵野鉄道サハ315形 315→デハ315形 315→西武モハ201形 モハ204で、1955(昭30)年の1067mm改軌直後にM16形 M161として栗電に入線した。入線当時は16m級の木造車体であったが、劣化が進んでいたことから1959(昭34)年に西武所沢工場で剛体化改造が行われ、車体長も延長し、当時の西武501系(初代・のちの351系)にも共通する写真の姿となった。
 M181は、1995(平7)年にくりはら田園鉄道となった後もこの場に長く留め置かれたようだが、ただなぜか若干だけ細倉側(写真中央の乗降扉が写真の乗務員扉の位置あたり)に移動されていた。2010(平22)年に解体されたとのことだが、くりはら田園鉄道になってからも15年間姿を留めていたということになる。
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 写真はC151と連結して停車中のED201。
 ED20形(ED201~203)は、762mm軌の栗原鉄道時代の1950(昭25)年の電化時に導入された電気機関車で、新製時は自重が18t級だったので、ED18形を名乗っていた。1955(昭30)年に1067mmに改軌されたときに、車体はそのままで台車の枠だけを広げて自重が増加、ED20形となった。そのため台車枠の幅が車体幅より少し大きかった。また改軌により架線位置が高くなったにもかかわらずパンタグラフはそのままとされたようなので、左に見えるC151と比較しても屋根位置が低いことから、上昇時のパンタグラフは思い切り広げてていた。ある意味、特徴的に胴を小さく、手脚を長く描くコメディ-コミックのキャラクタのような電機ともいえなくもない。でもパンタグラフに関していえは、ゲタを履かせて折りたたみ位置を嵩上げするということは考えになかったのだろうか。
 写真のED201は、3輛在籍したED20形の中で、非電化前まで車籍を残していた車輛である。訪問時のED201は塗装したての美しい状態であった。そして半年後の電気運転最終日には、若柳-細倉マインパーク 間の枕木輸送列車という名目の臨時貨物列車(実際に枕木は載せていない)で、ED201+ト102+ト103+ワフ74(下り/上りはED201とワフ74の位置を入替)の編成が運転され、最後の花道を飾った。この貨車の3輛は、当時栗電に車籍を残していた貨車の全車輛であった。いずれの貨車も除籍は2005(平17)年で、現在はくりでんミュージアムに保存されている。
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 写真は、訪問時は既に車籍を失っていたED203。写真左後方には、電気運転最終日の臨時貨物列車で使用されたワフ74の姿も見える。
 ED20形はもともと軽便サイズで作られた電機ということもあってパワーはあまり大きくなく、また電機の重連総括の機能はなかったそうだ。後に出力がED20形の2.5倍もあるED35形が入線し、貨物列車の本数が少なくなってくると、ED20形の活躍の場は狭まっていったという。
 訪問当時のED20形は上項のED201だけが車籍を有していた一方、1983(昭58)年除籍のED202はワフ71とともに細倉マインパーク前駅で保存されており、1987(昭62)年除籍のED203は写真の通りこのままでは朽ちるがままという状態になっていた。ところがその後の保存状況となると、ED202は現在この写真のED203のように状態は芳しくなく、最後まで活躍したED201は、「チャチャワールドいしこし」に引き取られM152・C152とともに保存車両として展示されていたが、2018(平30)年に全車ともに解体され現存しない。しかしED203はくりでんミュージアムの屋根付きの場所に綺麗に塗装されて保存されているという、この頃とは立場が逆転したような状態になっている。
 
【撮影日:94.08.27./掲載日:20.10.26.】
 上項のED203と同じく、駅舎の東(石越)側の側線に留置されていた栗原電鉄唯一の2輛固定編成、M171+C171(写真は細倉側のM171)。塗り分けでも想像できるように元は西武鉄道の車輛。大元は1925(大14)年に落成した国鉄50系電車で、西武時代はクモハ375+クモハ376を名乗り、主に新宿線系統で使用された。1976(昭51)年12月に栗電入りする際に1500Vから750Vに降圧され、クモハ376はM17形 M171となり、クモハ375は電装を解除して制御付随車のC17形 C171となった。栗電ではラッシュ時の輸送力を期待しての導入だったそうだが、残念ながらその後は年々利用者数が減る状況となってしまったために、車庫で控えていることが多かったそうだ。また運用に入るにしても、M171は他の電車よりも自重が重い上に、消費電力も多く変電所に負荷がかかる難点を抱えていたようである。…1輛は電装を解除したとはいえ、導入時にそこまで考えなかったのだろうか謎である。廃車は1987(昭62)年5月で、在籍は10年ほどであった。ということは、写真を撮ったときは廃車から7年ほどが経っていたということになる。非電化後にこのM171+C171がどうなったかは判らないが、この写真の場所には2000(平12)年以降にC151と、県立迫桜(はくおう)高校用の駐輪場として使用されたM182が留置されていたようなので、非電化後からのちのどこかの時期に解体されたのだろう。
 
 

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