東日本旅客鉄道 水郡線 | |
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磐城石井 | Iwaki-Ishii |
【撮影日:14.06.15./掲載日:18.09.09.】 当駅は矢祭町の北部にある。この石井地域だが、少々複雑な変遷を辿っている土地である。 1889(明22)年の明治の大合併で上石井村・中石井村・下石井村・戸塚村が合併して石井村として発足する。その後1955(昭30)年に石井村は北側の村などと合併して塙町になる。ところがその2年後に、旧石井村のうち元の中石井村・下石井村・戸塚村の部分が南の矢祭村に編入(元の上石井村は塙町に残留)し、現在の形となっている。地図で見てみると、矢祭町北部の水郡線が通っている地域だけが塙町に突き刺さるような町境になっている。 磐城石井駅の住居表示はの中石井となっているが、駅南側は下石井にかかっている。ちなみに南隣の南石井駅の住居表示は下石井となっているが、駅南側は戸塚にかかっている。 |
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【撮影日:14.06.15./掲載日:18.09.09.】 駅舎は待合室だけとなっている。全体的には直方体なのだが、出入の4本の柱で支えられている屋根部分が、待合室に対して若干角度が付いて折れ曲がっている。これは意図的にこういう意匠で建設したんだろうなぁ。 建物が立っている場所をよく見てみると、建物の2倍弱くらいの広さで地面にコンクリートが打たれている。もしかしたらかつてあったという駅舎はこの大きさの建坪であったのだろうか。 当駅付近では水郡線は久慈川が造った平地の真ん中辺りを貫いているが、民家は山裾に沿って延びている。駅前には小さな住宅街が形成されてはいるが、そこから外れてしまえば周囲は田圃である。当地の水郡線は昭和に入ってから開業している(1931(昭6)年)ので、明治初期にあった鉄道忌避というのは既に無かったとは思うが、集落から離れたところに鉄道が敷設されたのには何か理由があったのだろうか。建設費節約?? |
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【撮影日:14.06.15./掲載日:18.09.09.】 駅舎の代わりに新しく建てられた待合室だけの駅には、写真のような駅名と水郡線の駅順の番号が書かれたサインボードが掲示されている。そこにデザインされているものは各駅でまちまちなのだが、当駅は魚が描かれている。この魚は、感じからすると鮭のようだ。私が知らなかったのだが、調べてみると、久慈川は鮭が遡上してくる首都圏に近い川として釣り人には知られているようだ。 |
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【撮影日:14.06.15./掲載日:18.09.09.】 待合室内は細長い。ちゃんと確認したわけではないが、おそらく奥の窓が開くと言ったような仕様にはなっていないと思われるので、夏は暑くなってしまうのではないだろうか。ベンチは互い違いに配されているが、後ろの壁が若干内側に迫り出しているのはデザインなのだろうか。左の壁に運賃表と時刻表が掲示されており、部屋の突き当たりにLED表示器が設置されていた。 |
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【撮影日:14.06.15./掲載日:18.09.09.】 現在は1面1線の棒線駅となっている当駅。かつては列車交換が可能な駅として機能していた時期があり、構内の西側にはかつての下りホームが姿を留めている。交換駅時代は上下のホームがオフセットしていた形になってと想像されるが、現在使用されているホームは後に上り側に延長されたと想像される。 |
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【撮影日:14.06.15./掲載日:18.09.09.】 写真だと少々判りづらいかもしれないが、南北に通る線路の東側に貨物側線とそのホーム(写真左側)の跡が残っている。線路部分は大量の土が入っており、使用が停止されてから長い月日が経っていることを感じさせる。 |
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【撮影日:14.06.15./掲載日:18.09.09.】 駅に到着する下り列車。 編成の横に、上り列車に対する70km/hの速度制限標が見える。上り列車に対してはさらに数十メートル先に75km/hの速度制限標が線路の向こう側に建てられている。交換駅だった線形そのままに棒線化された駅によくありがちな、無意味に残されたS字カーブに対する制限標たちである。線形をまっすぐにしようとすればホームの作り直しが必要となり、そうなると費用も莫大になるので、簡単に直せないという実情もある。仕方ない一面である。 ◆写真の列車情報◆ 水スイ E132-3(ほか1輛) 1601発 335D[普通]水戸→郡山 |
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