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三木鉄道 三木線
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厄 神 Yakujin
 ●2008年3月 訪問時
【撮影日:08.03.10./掲載日:16.03.04.】
 3番線ホームの線路の向こう側に立てられていた駅名標。普通に考えるとそのような場所に駅名標を立てるというのは珍しいことのように思う。確認したわけではないが、もしかしたら車内からでも確認できるように立てられたのかも知れない。
 
 
【撮影日:08.03.10./掲載日:16.03.04.】
 JRの駅名標の裏側に、同じサイズで掲げられていた三木鉄道の駅名標。JRは電光表示なのに対して、こちらは普通のボードであった。時計には青いJRのサインが入っている。
 
 
【撮影日:08.03.10./掲載日:16.03.04.】
 厄神駅は2面3線を有しており、そのうち島式ホームの片側となる3番線を三木鉄道が使用していた。写真は跨線橋から三木方向を見ており、写真中央の線路が三木線で、その他に映る線路は全てJR加古川線の施設である。
 加古川線の支線である三木線と北条線(現・北条鉄道)が国鉄から分離しそれぞれが第3セクター鉄道に転換された直後、国鉄は早々と両鉄道の線路を断ち切ってしまい、乗り入れをできないようにしてしまった、という話を雑誌か何かで読んだ記憶がある。収支が悪いのが判っていて残そうとしている盲腸線に対して随分な仕打ちをするものだと思ったものだ。そして国鉄がJRになった後も線路は繋がることは無かった。加古川にも繋がらず、沿線に目立った観光地も無い短い三木線にとって、沿線の利用だけで鉄道を維持することは元々無理だったのかも知れない。それでも第3セクター鉄道しては23年間営業したことになる。
 国鉄の赤字の伴い様々な路線(工事凍結線を含む)が第3セクター鉄道の道を選んだが、営業収支の悪さから行くと三木鉄道は転換線の中で3位だった。そして同じ加古川線の支線だった北条鉄道は4位だった(1位は神岡鉄道、2位は阿佐海岸鉄道)。この2線から遅れて廃止になった同支線の鍛冶屋線は営業収支が高かったにもかかわらずバス転換の道を選んだのは、両線の不振ぶりを見たためだったという。
 ちなみに廃線後の3番線は、掲載日現在でも使用されていないとのこと。
  
 
【撮影日:08.03.10./掲載日:16.03.04.】
 駅の時刻表。三木鉄道のダイヤは加古川線との接続を重視して組まれている。加古川線が平日と土休日のの二本立てになってるため、三木鉄道側も二本立てとなっている。
 本来なら三木線は加古川線と直通させた方が利用者のためにはいいのだが、それが叶わないので、こういうダイヤにするのが精一杯のサービスになってしまう。
 
 
【撮影日:08.03.10./掲載日:16.03.04.】
 停車中のミキ300-105。加古川線の電車を待ち受ける。
 
 
 ●1997年10月 訪問時
【撮影日:97.10.16./掲載日:16.03.04.】
 この写真は、山陰線城崎側から大阪に向かうときに乗り潰しがてら利用した加古川線乗車時に、厄神駅で途中下車し撮影したもの。この時は三木鉄道には乗車していない。
 ミキ180形は新世代レールバスの嚆矢となった富士重工のLE-Car IIがベースの12m級気動車で、第3セクター転換開業時の1985(昭60)年に2輛が入線している。1994(平6)年にミキ180-101の足回りが更新。1999(平11)年にミキ180-102がミキ300-103と-104の導入に伴い廃車、2002(平14)年にミキ180-101がミキ300-105と入れ替わりで廃車となっている。
 塗色の青い帯は三木線と並行して流れる美囊川の色を表しているそうだ。赤の理由ははっきりしないが、もしかしたら三木山森林公園のツツジの花の色なのかもしれない。塗色は後継のミキ300形に引き継がれたが、赤帯の色味は異なっており、ミキ180形が黄みが強く、ミキ300形が青みが強くなっていた。
 ちなみに、この頃の厄神駅は駅舎が木造で、ホームの上屋も木造であった。ただ撮影もフィルム使用でで、撮影時間も夜間に差し掛かった時間帯であったために、駅舎の写真が綺麗に撮影できなかった。そのあたりの記録がちゃんと残せなかったのは残念であった。
 
 
【撮影日:97.10.16./掲載日:16.03.04.】
 車体側面の三木鉄道の社紋と、ミキ180-101の車番。
 
 
 

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