真岡鐵道 真岡線 | |
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市 塙 |
Ichihana |
● 2017年3月訪問時 | |
【入手日:17.03.20./掲載日:17.05.18.】 |
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【撮影日:17.03.20./掲載日:17.05.18.】 市塙駅は芳賀郡市貝町の代表駅である。 市貝町の"市"は市塙の一文字であると考えても問題無い。市塙村は1889(明22)年に赤羽村と他4村と合併してで市羽村となった。その市羽村も1954(昭29)年に小貝村と合併し、現在の市貝村→町になっており、二回の合併を経て"市"の漢字がなんとか残された状態だ。 ちなみに市塙駅が開業したのは1920(大9)年のことで、市羽村の時代のことである。 駅名標のローマ字がヘボン式の「chi」ではなく訓令式の「ti」になっている。ただ両隣の駅、多田羅と笹原田の駅名標では、市塙のローマ字表記は「chi」になっている。 |
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【撮影日:17.03.20./掲載日:17.05.18.】 1994(平6)年に列車の交換設備の復活と同時期に立て直された建物だが、駅舎というには不足で、待合室としての機能だけを有する。八角堂のような特徴的な外観をもち、壁には一面おきに計4面に武者絵が描かれている。 |
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【撮影日:17.03.20./掲載日:17.05.18.】 建物の中の様子。屋根裏の木組みが美しい。武者絵の壁の裏側は展示ケースが設置されており、中に花が飾られていた。床のタイルも八角形に敷かれている。 建物は内も外も綺麗に維持されている。市貝町の玄関駅ということもあり、おそらく市貝町がが維持に協力しているのだろう。好感が持てる。 |
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【撮影日:17.03.20./掲載日:17.05.18.】 2面2線のシンプルな構内である。 「大正十二年鉄道敷設法別表」によれば、当駅から北西の東北本線宝積寺駅までの路線が計画されていた。これが予定通り開業していたら、宝積寺を介して宇都宮と線路が繋がることになり、真岡線が栃木県内で孤立した路線ではなくなるはずだった。しかも当駅はジャンクションとして機能し、町も今とは違った賑わいになっていたかもしれない。 「大正十二年鉄道敷設表別表」ではこの他にも、市貝町がある芳賀郡地域に国鉄線を敷設する計画が複数掲載されている。でも列車が走ったのは真岡線だけだった。 |
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【撮影日:17.03.20./掲載日:17.05.18.】 市塙駅は長らく棒線駅であったが、真岡鐵道に転換されたのちの1994(平6)年に復活させた。 写真は上りホームのものだが、そのホームの裏手は広い敷地になっており、綺麗に除草されている。かつてこの場に貨物側線とかがあったのかと思いきや、さにあらず。かつての貨物側線は駅舎(下りホーム)側の茂木側にあった。そしたらこの広い場所は…? ということになるが、どう見ても鉄道の敷地にぴったりな広さや形をしている。もしかしたら鉄道のジャンクションとなることを見越して用地をあらかじめ確保していたときの痕跡なのか? と想像してみると、ちょっとわくわくする。 |
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【撮影日:17.03.20./掲載日:17.05.18.】 一般的に見る構内踏切は、ホーム端のスロープを利用するものや、駅舎の出入口に近い場所に切り欠いて階段を造るというようなことをする。 しかし当駅の構内踏切は一風変わっている。写真の場所は下りホームの茂木側であるが、写真右側にはホームがスロープ状になっているのに、そこを利用せずに、手前を掘り下げてわざわざ階段を造っているのである(写真では左側の柵の下の壁の裏部分)。向かい側の上りホーム側から見るとホームのスロープを下った位置にあるので、これに合わせて構内踏切を造った可能性は高い。しかしその一方で、スロープを利用し構内踏切を造ったほうが工費が安く上げられたのではないかと思ってしまう。数メートルでも歩行距離を短くしたいと考えて造った、という親切心ゆえのこの構造だろうか? |
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【撮影日:17.03.20./掲載日:17.05.18.】 駅に到着するモオカ14-2(1106発 2120[普通]真岡ゆき)。今回の訪問で私が唯一見た、モオカ14形での「真岡ゆき」である。日中の列車で、かつ下館まで行かない列車というだからなのだろうか、到着した車輛の車内には乗客がおらず、乗車したのも私と他の乗客が一人だけであった。 |
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