JR東日本 常磐線 | |
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坂 元 | Sakamoto |
●2022.05.訪問時 | |
【撮影日:22.05.21./掲載日:22.0..】 |
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【撮影日:22.05.21./掲載日:22.07.10.】 移転新駅は棒線駅であるため、隣駅は両矢印表記になっている。 |
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【撮影日:22.05.21./掲載日:22.07.10.】 旧駅では1面2線だった駅も、高架駅となった新駅は現状、1面1線の棒線駅。内陸移転は西へ1km以上と大きく動いており、国道6号線にかなり近寄っている。 駅前には「やまもと夢いちごの郷」という道の駅のようなフードコートを併設した産直品販売所が2018(平30)年に開設され、国道にも近いことから賑わっている。他にも飲食店やコンビニもあるので、駅周りをする際の昼食休憩には持ってこいの場所といえそうだ。その他に変わったものとしては、ポケモンのマンホール蓋や、震災の津波で当地から6500km離れたカナダの西海岸まで流されていったハーレーダビットソンの展示を見ることができる。 |
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【撮影日:22.05.21./掲載日:22.07.10.】 改札口周りには窓口が設置され、Suicaリーダー、自動券売機も用意されている。窓口はJR東日本東北総合サービスによる委託営業で、窓口営業は時間が細かく区切られ、断続的に開かれるように設定されていた。 訪問する約2ヶ月前に当地は強い地震に見舞われた。駅舎やホームには特に損傷は見られなかったが、駅舎内とホームをつなぐ昇降階段の壁には割れや一部石膏ボードごと剥離してしまった箇所も見られた。その箇所にはパイロンが建てられていたが、そのパイロンには当駅を管理している「岩沼駅」のシールが貼られていた。 |
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【撮影日:22.05.21./掲載日:22.07.10.】 券売機と窓口の反対側には待合室がある。窓口側はガラスの壁になっており、これだと窓口からでも中の様子が丸わかりである。管理のしやすさから、このように設計されたのであろうか? |
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【撮影日:22.05.21./掲載日:22.07.10.】 新駅は棒線駅で再開通したが、駅自体は1面2線へ増築できるように準備工事がなされている。写真はホームの日暮里側の様子だが、桁などが微妙に伸びたように造られているのがその証拠だ。 |
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【撮影日:22.05.21./掲載日:22.07.10.】 ホームの日暮里寄りから日暮里方向を見たところ。ホームの先は、現在線と左に見える遊水池の間に細長い三角形の土地が見える。これはもちろん将来当駅が1面2線の構内にできるように準備されている土地である。もちろん岩沼側にも同様に準備された土地がある。 |
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【撮影日:22.05.21./掲載日:22.07.10.】 駅を出発する下り電車。ホームは昇降部分を除いた両端部の幅が狭い。交換駅となった暁には幅は広がることになるのだろうが、そのようになる日はいつのことだろうか…。 ◆写真の列車情報◆ 仙セン E721系 P-10+701系1500番台 F2-509(写真先頭車はP-10 クハ700-10) 1132発 241M[普通]原ノ町→仙台 |
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【撮影日:22.05.21./掲載日:22.07.10.】 ホームの岩沼側から、駅を通過していった下り[特急]をデジカメの望遠を使って撮影したもの。駅の北側に若干カーブした場所があるので、E657系の10両編成全体を写真に収めることができる。ただ望遠なので、多少像が揺らいでしまう難点はある。 話は変わるが、もし震災が起きていなければ、このように当地でE657系を走る姿は見られなかったかもしれない。震災以前、JRは2012(平24)年3月のダイヤ改正時に、[特急ひたち]を系統分割して、いわき以北はE653系4両編成による一般公募で募集した新たな愛称の[特急]を走らせる計画をしていた。震災前に一般公募は締め切られていたので、当時はどの程度愛称が絞り込まれていたのか興味があるところではある。そして2020(令2)年の常磐線全線での運転再開では、いわき折返とはせずに常磐線全線を走破する[特急ひたち]が復活した。この結果は私にしては予想外で、双葉郡域の状況や、当初の予定だったE653系は新潟エリアで使用され、他に交流電化区間で使える特急車輛の予備も無く、新造するとは思えなかったとこから、原ノ町までのE657系の使用があっても、いわき-仙台間で[特別快速]のような列車を走らせるのではないかと思っていた。もっとトリッキーなところでは、房総地区で余剰になっていたE257系1000番台を[特急しらゆき]に充てて、1100番台になっていたE653系を取り返すのではないかとも予想した。結果として震災前に比べると、打ち切りどころか[特急ひたち]の運転区間が品川へ延長されているという、意外な展開になっている。 ◆写真の列車情報◆ E657系 水カツ K-3 1158頃通過 3M[特急 ひたち3号]品川→仙台 |
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●2015.09.訪問時 | |
【撮影日:15.09.20./掲載日:21.11.20.】 約1年後に元の坂元駅を訪問してみると、残っていたホームは撤去され、軌道敷きは工事が行われていており、道路工事の車輛が停車していた。 掲載日現在のこの場所を含む津波で流された常磐線の軌道の跡には、かつてのホーム面の高さよりも高く盛り土がなされ、常磐線の海側をほぼ並行していた宮城県・福島県 県道38号相馬亘理線の付け替え道路となっている。そのため駅としての痕跡はほぼ残っていないようである。 |
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【撮影日:15.09.20./掲載日:21.11.20.】 駅前から日暮里方向を見る。土地の形状だけが軌道跡として判る程度で、鉄道の痕跡はほぼ消失しているといっていい状態であった。掲載日現在は2020(令2)年10月に開通した県道38号がこの場所を通っている。震災前の県道38号は、国道6号の裏道としても利用されていた片側1車線の道路だったそうだが、常磐線と平行していたとはいっても、そんなにまっすぐな道路というわけではではなかったようだ。線路跡に通された道路ということなら、道路の線形もかなり改善されたことであろう。 |
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【撮影日:15.09.20./掲載日:21.11.20.】 元常磐線の踏切があった軌道脇に「開通105年 地盤固い」の立て看板を見つけた。 当時、震災後の常磐線を復旧させるのに際し、常磐線の内陸移転に反対し、元の位置で復旧させるべきだと訴える住民が存在した。その理由は、内陸移転する高架の線路にできる駅は住宅地から離れていることや、津波に流されたとはいえ、長年列車が通り続けていることで地盤が安定しており、鉄道を復旧させるのも短期ですむからという理由であった気がする。 しかし現実は内陸移転で再開通することになり、一方で固いと思っていた元常磐線の軌道は重機であっさり掘り返されてしまうことになる。このいきさつや後の光景を見ると、この立て看板は笑い話のネタのような存在に見えてしまうのだが、線路の内陸移転を反対していた住民からしてみれば旧駅付近の町がなくなってしまうかもしれないという淋しい想いがあったのだろうと考えると、笑い話にしてしまうことは失礼なのかもしれない。 掲載日現在の常磐線の旧軌道跡は、将来の津波災害を防止するためだろうか、築堤のように盛り土がされ、その上に道路が通されている。 |
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【撮影日:15.09.20./掲載日:21.11.20.】 新・坂元駅は、国道6号に並行する場所に建設されていた。この写真では読み取れないが、高架の柵の上には「JR」「東」「日」「本」_「東」「北」「工」「事」「事」「務」「所」_「(新)」「坂」「元」「駅」と掲出されていた。そしてやや離れた場所に「(鹿島の社章)」「鹿」「島」とゼネコンの名前も掲出されていた。(カギ括弧は正方形の1枚の掲示パネルの意味) ちなみに亘理方面の代行バス停からだと南へ350mほどの場所、相馬方面の代行バス停からだと200mも離れていない場所になる。 写真は、右が日暮里方向になる。 |
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【撮影日:15.09.20./掲載日:21.11.20.】 写真は、上項の写真とは反対側から撮影したもので、変わって左が日暮里方向になる。高架線を見ると、写真下を流れる坂元川を渡る橋梁(右端)を渡ってすぐ高架の幅が広がっていることが判る。ただ列車交換駅となるほどの幅は無いように見え、架線柱も片側にしか設置されていないことから、この幅広分はホームを設置する分だけなんだなぁというのが判る。 実際に再開通するにあたり、当駅は棒線駅とされた。ちなみに、当駅と同じく内陸移転した両隣駅の新地駅と山下駅は列車交換可能な駅と整備され、再開通後も震災前同様に仙台からの折り返し列車が設定された。このあたりは駅の格のに違いを感じてしまう。 |
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●2014.07.訪問時 | |
【撮影日:14.07.25./掲載日:21.11.20.】 駅前の様子だが、震災後に残っていた跨線橋や公衆トイレなどは撤去されていて、唯一ある人工の立体物はホームだけというような状態であった。 写真の駅前広場の奥に駅舎の跡があるのだが、写真中央のやや左に、震災前の駅の写真が飾られて、そして花や飲み物が備えられていた。この撮影前にはそこで手を合わせさせていただいた。 |
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【撮影日:14.07.25./掲載日:21.11.20.】 駅舎側の跨線橋の跡。震災前は駅舎と島式ホームをつなぐ跨線橋があったが、震災では津波で駅舎は破壊されてしまったが、跨線橋はねじれながらも姿はなんとか残していたそうだ。訪問時はその跨線橋の姿は撤去されてすでに無く、基礎のコンクリートと、根元から切り取られた支えていた柱の鉄管の跡だけが残っていた。 |
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【撮影日:14.07.25./掲載日:21.11.20.】 元のホーム上の跨線橋の出入口付近から日暮里方向を見る。この写真では左側が海側となるが、海側となる上り線側のホームの笠石が消失しており、津波の勢いが想像できる。その一方で山側となる下りホーム側の笠石はいくつか残っており、アスファルトに貼られた点字シートも所々はがれずに残っていた。跨線橋階段位置を示す点字シートに至っては、ほとんどはがれずに残っているのが解る。 ちなみにこの島式ホームは昭和の末期頃に造られたもので、それ以前は2面2線の対向式ホームの駅構内だったそうだ。この改良工事は、付近の川が大雨で氾濫を時々起こすための対策として工事が行われたそうなのだが、この理由だけでは何のことやら、ちんぷんかんである。でも訪れて駅構内の様子を見ると路盤が若干嵩上げされているように見えるので、それが洪水対策だったというのであれば理由がわかる。ただ対向式を島式のホームに変えた理由は判らないが、工事をする過程でそのほうが都合が良かったとか、なのであろうか。 ちょっと周りより高い位置にあるホームの上に立つと、周囲をよく見渡すことができたのだが、ただ緑が広がる風景はなんとも言えない寂寥感が漂っていた。 |
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【撮影日:14.07.25./掲載日:21.11.20.】 岩沼方向を見る。こちらも同じく寂寥感が漂う風景である。こちらには写真右の海側か襲ってきた津波がホームのアスファルトを抉っていった跡が残っていた。そのちょっと先には照明の柱と思われるものが、根元から山側へ薙ぎ倒されていた。何もかもが津波によって蹂躙されていったことを想像すると、津波の恐ろしさを思い知る。 |
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【撮影日:14.07.25./掲載日:21.11.20.】 元の駅前に立つ山元町総合案内板。津波に浚われた平地には目立ちすぎる存在だ。地図のサイドには山元町の歳時記と観光スポットなどが案内されている。しかしこの中には今では消えてしまったであろうもの、復活を果たしたものもあるかもしれない。 でもこの案内板だが、元がどういうものだったか判然としないのだが、この枠に対して案内板のサイズが合っておらず、左右にはみ出しているのである。しかも案内板は無愛想に金具で枠で留められており、とりあえずくっつけましたというような状態である。もしかしたらこの枠と案内板は別々のものだったのかもと疑ってしまう。 |
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【撮影日:14.07.25./掲載日:21.11.20.】 駅前の一角には、小さいながらも花壇が造られていた。最初は地元の方によって作られたものかのと思っていたが、手前の小さな看板には「心つなごう 大田原国際交流会」とあり、栃木県の団体さんが関わっているようだ。 |
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【撮影日:14.07.25./掲載日:21.11.20.】 坂元駅の代行バスの亘理方面のバス停は、旧駅から西へ1kmあまり離れた国道6号上の、JAのガソリンスタンド(JA-SS ユーハウス坂元SS)の南側に設定されていた。相馬方面のバス停は、ここの南側にある旧・坂元駅の入口となる道路交差点の南側にある坂元川を渡った場所に設置されていた。 |
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【撮影日:14.07.25./掲載日:21.11.20.】 亘理方面の代行バス停にはプレハブの待合室が設置されていた(相馬方面は待合室なし)。窓上部には「JR」「坂」「元」「駅」と表示されていたようだが、訪問当時はなぜか「JR」以外の文字は剥がれてしまっていた。この代行バス停の場所には、元からあると思われる山元町町民バスの「坂元駅(西)」のバス停も設置されていた。 掲載日現在は代行バス運転終了とともにJRバス停は撤去されたが、当地近くに新・坂元駅が開設されたため、町民バスのバス停も駅前に移設・再設定されて撤収されている。(ただしこの場所の近隣に、町民バスの別のバス停が設定されている) |
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