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JR東日本 常磐線
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広 野 Hirono
 ●2018.03. 富岡再開通後訪問時
【購入日:18.03.04./掲載日:22.01.10.】
 きっぷには、「広野」の前に「(常)」の文字が印刷されている。そういえば、福知山線にも同名の駅がありましたね…。
 
 
【撮影日:18.03.04./掲載日:22.01.10.】
 
 
 
【撮影日:18.03.04./掲載日:22.01.10.】
 5年前と同じ佇まいを見せる駅舎。ただ1点違うのは、駅名表示が載っているひさしとその左側のひさし部分の屋根が葺き替えられている。ただこのあと、ホーム側から駅舎を見たときにびっくりすることに。
 
 
【撮影日:18.03.04./掲載日:22.01.10.】
 駅舎内の様子。当時、当駅はいわきー原ノ町 間の駅では唯一のみどりの窓口のある駅であったが、この訪問後の2021(令3)年3月にマルチな券売機に置き換えられて窓口営業が終了し無人化されてしまった。
 
 
【撮影日:18.03.04./掲載日:22.01.10.】
 驚くことに、駅舎のホーム側の屋根は、反対側と異なり薄いコンクリートの瓦葺きとなっていた。ひさし部分は波板の鋼板が使われているが、こちらはかなり錆々であった。ホーム側の屋根は大丈夫だからそのままにしたとは考えられるが、それにしても屋根の片面だけ修繕するというのは珍しくはないだろうか。
 
 
【撮影日:18.03.04./掲載日:22.01.10.】
 駅一番線ホームに建つ「汽車の碑」。〽今は山中 今は浜~、で知られる唱歌「汽車」で歌われている景観が久ノ浜ー広野 間の変化に富んだ車窓のことと言われており、その作詞の地として記念して建てられたものという。
 ただこの作詞についてはいろいろ議論があり、歌詞の中に出てくる"広野原"は固有名詞ではないとする説もある。この石碑には作詞者の名前が刻まれているものの、時代考証的におかしな部分があると指摘があるため、一般的には作詞者不明として扱われている。
 
【撮影日:18.03.04./掲載日:22.01.10.】
 駅を出発するE531系。いわき以北でのE531系の運用開始は2015(平27)年2月からで、その際に415系1500番台の運用を駆逐している。
 この当時、駅の東側はただ田畑が広がる場所であった。ただこの訪問したときの前後の時から東口の開発が始まり、掲載日現在ではホテルや病院が建ち、住宅地化が進んでいる。そして駅構内の岩沼側を横断する「未来のかけ橋」という名前のついた歩道の跨線橋が架けられている(写真左上に工事中だったその階段の一部が写っている)。

 ◆写真の列車情報◆ E531系 水カツ K472(写真先頭はクハE531-2022) 671M 944発[普通]水戸→富岡
 
   
 ●2013.09.訪問時
【撮影日:13.09.07./掲載日:22.01.10.】
 震災から半年後に部分復旧によって、それ以来、常磐"南"線の終端駅となっていた当駅(2011(平23)年10月~2014(平26)年6月)。ただ訪問当時の広野町の北隣の楢葉町は原発災害のため立ち入りはできても住民でさえ宿泊できる区域ではなかったために、ここより北に向かう代行バスは設定できていなかった。車を使うにしても、町を出るにはいわき市側に南下するより他になかった状況であったので、ある意味最果ての駅(!?)となっていた。
 訪問当時の駅舎は、切妻の屋根だけが直され(直されたのが何時かは不明)、ひさし等は修繕されておらず、一体感に欠けた印象であった。
 
【撮影日:13.09.07./掲載日:22.01.10.】
 駅は2面3線で、1番線が下り本線、2番線が中線で3番線が上り本線となっており、1番線と2番線の間にホームのないもうひとつの中線の跡があった。
 訪問時、常磐線の南側区間の北の終点は当駅だった。折り返し運転については、その線路が剥がされた跡の上に仮設のホームが造られ、2番線での折り返し運転となっていた。そのため一時的とはいえ、2番線は両面ホームの状態となっていた。また仮設ホームが造られたことで、駅舎とは跨線橋を経由せずとも乗降が可能であった。
 
 
【撮影日:13.09.07./掲載日:22.01.10.】
 撮影した場所は広野駅より1km弱ほど北に行った、北迫川という小さな川を渡る南側付近、そばに国道6号線にあるセブンイレブン福島広野町店がある場所の近くである。このセブンイレブンは、当時では福島第一原発に一番近いコンビニだったと思う。写真右方向が日暮里側になる。
 
画像にポインタを合わせると、説明用の画像に変わります。
 架線柱の様子を見てみると、一番右の①が架線を吊った北端の架線柱のペアで、ここが広野駅構内の岩沼側からちょっと先のあたりで、(A)が終端架線柱が軌道中心に建てられていた。②は架線を吊るための可動ブラケットは取り付けられているもの架線は張られておらず、③に至っては可動ブラケットは取り付けられていなかった。④には可動ブラケットは取り付けられていたものの、向きはかなりズレていた。遠目からなので正確にはわからないが、おそらく②の架線柱のあたりまでは線路が敷かれていたと思われる。
 
 
 

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