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東日本旅客鉄道 東北本線
大河原 【次の掲載駅】 槻木
船 岡 Funaoka
 
【購入日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 
【撮影日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 当駅の駅名標は写真入り。その写真は一般的にだけでなく、鉄道写真の撮影地としても知られる「白石川堤の一目千本桜」。訪問したのは3月であったが、東北地方ということもあり、桜の開花はまだちょっと先の話。
 
【撮影日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 当駅には、最近では見かけることが珍しくなった名所案内板が残る。こちらの案内板も一目千本桜の写真入りである。
 
【撮影日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 南口に建つ駅舎の様子。駅舎は木造の平屋建てとなっており、1990(平2)年に竣工したもの。右に見える棟続きになった2階部分は、同時に竣工した柴田町の施設「船岡駅コミュニティプラザ」で、こちらは鉄筋造りとなっている。こちらには駅舎反対側となる跨線橋がつながっており、駅跨線橋と直結した2階改札口がある(平日のみ利用可)。ちなみに当駅は系列会社による業務委託駅となっている。
 駅舎の外観は城造り風になっているが、これは船岡城をモチーフにしているとのこと。ちなみに歴代の城岡城主の中に、伊達騒動の中心人物とされる原田甲斐という人物がいたそうだ。
 
【撮影日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 駅舎内は典型的な、利用者もそれなりにある小駅のスタイルといったところ。それに加えて仙台圏のSuica対応の自動改札と、LEDの列車発車案内表示がある。まあ1時間に上下2本ずつの列車が発着するのだから、これくらいはあっても当然か。写真の左に、桜の写真を背景にした「またお越しください」と書かれたサインボードが吊り下がっていた。
 当駅には駅スタンプがあるそうだが、訪問時の窓口は時間閉鎖中。スタンプゲットならず。
 
【撮影日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 当駅の構内は、構造自体は2面3線となっているが、中線となる写真右側の線路は架線が無く、ホーム端にも柵が設置されており使用停止状態である。ただGoogle Mapで見る限りでは、下り線の東京側と上り線の青森側は分岐器が残されて線路が繋がっているので、保線用などに使用されているのかもしれない。
 写真は駅に停車中の上り電車。これからこの電車が行く先に、一目千本桜と東北本線が並行している鉄道写真でも有名な場所がある。
 
 ◆写真の列車情報◆ 701系 仙セン F2-501+F2-23(写真後尾はクハ701-1023) 1131発 434M [普通]仙台→白石
 
【撮影日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 上りホームの東京寄りに石川啄木の歌碑がある。写真右側が歌碑で、彫られているのは「汽車の窓 はるかに北に ふるさとの 山見え来れば 襟を正すも」という短歌。この短歌自体は当地とは何の所以もないもので、啄木が当地を訪問した記録もない。
 ではなぜここに啄木の歌碑があるかというと、当地出身の歌人である吉野白村(本名は章三)が、苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)という文芸同人会の中で啄木と親しい関係であったばかりでなく、啄木の文学へ大きな影響を与えた人物であったことが関係している。歌碑は2003(平15)年に石川啄木歌碑建立委員会というところが建立したという。この委員会については調べても情報が見つけられなかったのだが、啄木の没後100年記念に関したものと思われる。まあ啄木に関係した団体がこの建立事業に関わっているならこの碑が建つことになるのかもしれないが、だったら知名度は啄木より低いが、吉野白村の歌碑でも建てたら…と思わないでもない。
 ちなみに吉野白村は、苜蓿社時代には函館の小学校で、後に釧路の小学校で教鞭を執り、その辞職後は国鉄の釧路運転所に勤務したそうだが、38歳の若さで結核により逝去している。意外なところで鉄道に話が繋がっているとは。
 
【撮影日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 駅の西(東京)側に2輛の車輛が柴田町によって保管されている。その2輛はED71とオハフ61であるが、保存状態は野曝しということもあって荒れ放題、錆び放題である。ただ敷地はきっちりと除草されているようだ。
 車輛を保存するのであれば管理をちゃんとして欲しいと思うのは鉄道ファンの欲目かも知れないが、この状態を見てしまうと、これ以上荒れる前に解体処分して車輛という存在を全うして欲しいと思ってしまう。柴田町が廃車を引き受けて、しばらくは手入れが行われていたのかもしれないが、時間経過とともに手入れができなくなり、維持のために割くお金もないという状況になっていったのだろう。お金が絡んでいるとなると解体するのもタダではできないので、この先も荒廃が進んでいってしまうのだろう。
 敷地には柴田町が設置した表示板があり、その表示の中には町が車輛を譲り受けたと思われる昭和59(1984)年4月との日付が書かれていた。表示板に書かれていたED71の内容は以下の通り。
 「車号:ED71 37号/製作月日:昭和36年3月5日/製作メーカー:日立製作所/走行キロ:21,856,822Km(地球約546週)/運用範囲:東北本線・黒磯から小牛田間/配属区:福島機関区/誕生からの経緯:本機は、昭和34年から交流電気機関車として初めて本格的に量産されたED71形式の37号機であり、東北本線(黒磯以北)の50Hz交流電化用として製作された。同形式は昭和38年までに52両製作され、いずれも福島機関区配属となって東北本線の客貨車を牽引し、幹線輸送に大きく貢献するとともに交流機の基礎として他形式の製作に著しく寄与し、昭和57年11月のダイヤ改正において約20年の歴史に終止符を打った」。
 
【撮影日:23.03.11./掲載日:24.02.10.】
 もう1輛のオハフ61だが、屋根はめくれ、窓ガラスが一部割れ、状態はED71よりも劣悪だ。見ると車掌室側の乗降扉にはステップが設置されており、設置直後は定期的に車内が公開されていたのかもしれない。写真の右側の白い長方形が見えるが、これが保存車輛を説明した表示板になる。ちなみに表示板の文字も褪色が進んでいた。
 表示板に書かれていたオハフ61の内容は以下の通り。
 「車号:オハフ61 2527号/製作月日:昭和28年10月/製作メーカー
:国鉄長野工場/走行キロ:4,350,000Km(地球約109週)/運用範囲:東北本線、磐越西線、仙山線、日中線 等/配属区:新製~昭和36年9月 仙台運転所・同年9月~昭和58年9月 会津若松運転区・同年1月~現在に至る 郡山貨車区/誕生からの経緯:戦後、旅客輸送の需要増加に伴って製作された車掌室付き客車の1両であり、後に電気暖房改造等を施工し一般型客車の主流として活躍してきた。同形式は約800両製作され、全国的に運用されているか(原文ママ・「が」の間違い?)近年老朽化に伴い随時廃車されている」。
 
 

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