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高松琴平電気鉄道 琴平線・長尾線・志度線
高松築港 【次の掲載駅】 琴電屋島  
瓦 町 Kawaramachi
 ●2002年10月 訪問時
  【購入日:02.10.08./掲載日:20.07.23.】
 券売機から購入したのだが、汎用の"PJR"の地模様が入った切符でさえない。まさかこういうところも民事再生法適用の影響なのだろうか。
【撮影日:02.10.08./掲載日:20.07.23.】
 当駅の駅名標は、メイン部分は臙脂色で、隣駅表示はグレーとかなり渋めのカラーリングである。
 
【撮影日:02.10.08./掲載日:20.07.23.】
 時刻表は行き先別に分かれた関西スタイル。志度線のダイヤは非常に判りやすく、初電と終電以外は当駅を10n+2分の発車となっている。初電が6:00になっている理由がよく判らないが、終電が23:09となっているのは、高松築港23:00発の電車と接続をとるためである。ちなみに訪問直前のダイヤ改正以前は、20分間隔運転の時間帯は3本に1本が大町どまりであったが、改正以降は大町の行きの列車は平日のラッシュ時間帯のみとなった。
 
【撮影日:02.10.08./掲載日:20.07.23.】
 写真の車輛は30形。
 元々は湘南電鉄や京浜電鉄が1930(昭5)~1936(昭11)年に製造した様々な形式だが、戦中の大東急合併時に5230形にまとめられ、京急分離後に230形とされた。車体長は16m級で、これは東京地下鉄道・東京高速鉄道(現・東京メトロ銀座線)への乗り入れを画策していたからと言われる。戦後しばらくまでは両運転台車であったそうだが、1963(昭38)年から片運転台など様々な改造が行われて、運転台が非貫通であること以外はほぼ写真のような形態になった。最終的な京急の在籍車両数は、デハ230が47輛、ほぼ同型車であるサハ290が15輛で、末期は大師線でMcMcTMcの編成で運用されていたそうだ。京急での廃車は事故廃車を除き、1972(昭47)年から1978(昭53)年にかけて行われた。
 琴電でへの入線は1977(昭52)年から4年間かけて2輛編成7本(25~38)が導入され、形式は30形(3代)となった。導入に当たっては、琴電での偶数番号車は電装が解除されて制御車となっている。第1編成が導入された1977年当時、まだ先代の30形(2代)が存在したため、車番は75+76とされ、先代の除籍を待って31+32となった。1978(昭53)年導入の第2・3編成(33+34、35+36)は運転台非貫通のまま入線したが、1979(昭54)年導入の第4編成(37+38)からは増結時の乗務員移動やサボ交換時の作業を考慮して、写真のような貫通扉が取り付けられて入線した。また同年導入の第5編成については、形式番号に「4」を使うことが忌み番号となっていたことから29+30として入線、以降は第6編成が27+28、1980年入線の第7編成が25+26という車番が遡って付番されている。それにしても"4"については形式番号では忌み版として取り扱うのに車輛番号としては容認しているというのは、富士急などとは違って中途半端で面白い。琴電では志度線と長尾線で活躍した同車だが、600形・700形の導入が1998(平10)年から始まると30形の廃車が進み、1999・2000(平11・12)の両年で12輛6編成(志度線用と長尾専用3編成ずつ)が廃車となった。写真の志度線用となった第6編成・27+28も600形の増備で続けて廃車となる予定だったが、2001(平13)年の民事再生法適用を受けて増備計画が変更となり、結果的に2007(平19)年まで延命することになった。
 2002(平14)年に撮影したこの写真も、もし民事再生法適用という事態が起こらなければ、こうして残すことができなかったかもしれない。

 ◆写真の列車情報◆ 30形 27(+28) 1002発 [普通]瓦町→琴電志度 (列車番号不明)
 

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