国鉄 臼ノ浦線 | |
←佐々 【次の掲載駅】 臼ノ浦→ | |
大悲観 | Daihikan |
●2011年11月訪問時 | |
【撮影日:11.11.03./掲載日:21.05.02.】 この大悲観という駅だが、1931(昭6)年に佐世保鉄道が臼ノ浦までの路線を開通させたときに設置された停留所であったが、戦時中の1944(昭19)年に廃止されており、駅としてはたった13年足らず、国鉄駅としては7年半ほどしか歴史を刻めなかった駅である。 観光案内では、この場所の最寄りバス停は、西肥バス楠泊線[(佐世保駅前-)佐々バスセンター-楠泊-江迎]の小島入口バス停となっているが、写真の公園の入口は江迎方向にひとつ隣の臼の浦(註:臼ノ浦ではない)バス停との中間付近にある。 |
|
【撮影日:11.11.03./掲載日:21.05.02.】 公園にあった小佐々町の案内図。これで臼ノ浦線周りの駅位置を説明する。それにしてもこの地図に松浦鉄道西九州線の線路が記載されていないのはなんでだろう…。 地図の右下に赤い四角に「現在地」と書かれた場所の左に絵が見える場所が大悲観公園。紺色の道は県道で、大悲観公園から県道を地図右(東方向)に進み、佐々川・佐々浦のリアス式の切れ込みの手前付近に旧・肥前黒石駅、佐々川を渡って丁字路にぶつかる手前付近に旧・四ツ井樋駅、丁字路を右折し県道(139号線)の6角形マークが見えるあたりに松浦鉄道の小浦駅、丁字路を左折し十字路をまっすぐ、ちょっと行った先に佐々駅がある。また大悲観公園の場所のすぐ左側に南北に切れ込んだリアス式の湾が臼ノ浦湾で、臼ノ浦駅があったのは湾の奥の「現在地」の"地"の字の上あたり。そこから湾の左側(西側)に佐々や世知原などから掘り出された石炭を船で積み出すための貨物側線が延びていた。 ちなみに旧・小佐々町は九州本土最西端の地で、2006(平18)年に佐世保市と合併している。案内図の左下にモニュメントが建つの夕景の写真が貼ってるが、その場所が最西端の神崎鼻公園で、写真の上あたりに見える地図上の岬がその場所になる。 |
|
【撮影日:11.11.03./掲載日:21.05.02.】 初めて「大悲観」という駅が存在したことを知ったのは、JTBキャンブックスの「鉄道廃線跡を歩く」シリーズ(宮脇俊三 編著)のことであった。この字面を見て、なんでこんな「悲観」という文字が入る駅が誕生したのだろうかというのが不思議でならなかった。答えからいうと"大悲観音菩薩"(=大きな慈悲を持った観音さま)のことを表していて、いわゆるネガティブな"悲観"という意味は全く無いのである。 砂岩でできている一枚岩には「大悲観 文政十三年八月三日戊子書之 肥前守従五位下源朝臣熙(※註 参照)」と彫られている(文政13年/天保元年は1830年)。これは当時の平戸藩の藩主・松浦熙(ひろむ)が、ある日夢に現れた大悲観音菩薩の託宣を受け、この岩への登頂を試みるものの、危険を理由に家来に止められてしまったため、代わりにこの文字を彫らせたとのこと。「大悲観」の文字には蓮、鳥、蛇などが隠し絵的に使われている。またこの「大」ひと文字を埋めるとすると、米一俵分が必要だそうだ。ただ残念ながら現在では砂岩の風化がかなり進んでおり、名前の左下部分が欠落している。しかも岩に大きな亀裂が入っている状態だそうで、いつ崩落してもおかしくない、ある意味、冗談ではなく悲観的な状況だという。 註:石碑の文字はすべて縦書きだが、実際に石碑に彫られている一部の字は以下の通り 年="◇"の上下の頂点位置にそれぞれ「千」、左右の頂点位置にそれぞれ「力」 戊子=左に「子」、右に「戊」と行内で横書きになっている 従五=「従」の偏と旁の間に「五」 位下=「位」の偏と旁の間に「下」 朝臣=「朝」の偏と旁の間に「臣」 熙=(ノ+臣+己)+灬 |
|