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豊橋鉄道 渥美線 
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三河田原 Mikawa-Tahara
  2013.10.04.訪問時
【購入日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 番号:3837。
 
【撮影日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 当駅の北側には、現在太平洋セメントの関連会社である安倍川開発という会社が田原鉱山という石灰鉱山を持っている。かつて隣の神戸信号場(現・駅)から小野田セメントの専用線が伸びていたことを考えると、こちらの昭和中期から掘り出しを行っている鉱山への専用線があったとしても不思議ではなさそうなのだが、専用線の計画さえも無かったのだろうか? 国土地理院HPの空撮閲覧サービスの昭和中期の写真を見ると、当駅からではなく神戸からの専用線から分岐させれば市街地を通過することなく建設は出来そうではある。ただそこでもうひとつ判るのは、鉱山から市街地までの道路は整備されていたようだ。
 
【撮影日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 当駅の駅舎は蔵造り風。1999(平11)年から4年かけて先行された中部の駅100選では、初年の第1回で選出されている。
 田原市には蔵造りの建物が多く残っているのかと思ったのだが、田原市博物館や田原まつり会館のような新しい蔵造り施設はネット検索で引っかかるものの、埼玉県川越市のように蔵造り町アピールをしている様子は見られない。駅周辺市街地を探せばどこかに蔵造りの建物はあるのだろうか…?
 現在は新駅舎に移行し、写真の駅舎は無くなっている。
 
【撮影日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 駅舎内の様子。窓口周りは一見すっきりしているように見えるが、大きなガラス窓の内側にはいろんな掲示物が貼られており賑々しいのは、窓口あるあるといっていいだろう。運賃表と時刻表が白抜きの文字などで書かれており、ちょっとおしゃれ感を醸し出している。時刻表も、他駅のような発車分が同じ時間帯を省略表示とはせず、各時で全て表示されていた。
 
【撮影日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 駅舎内の天井の一部にきれいな絵が描かれた格天井があった。駅舎内に説明板が掲示されており、これは「城宝寺の天井画」を一部再現したものだそうだ。
 そばにあった説明板には城宝寺と実際の天井画の写真(褪色が激しくて判りにくくなっていた)とともに、以下の説明文が書かれていた。『城宝寺の天井画 田原町の郷土の偉人であり、幕末の先覚者として知られる渡辺崋山の菩提寺・城宝寺の奥本堂にある崋山先生位牌堂の格天井には、当代一流の日本画家・書家による「花の絵」の作品83点が並んでいます。当駅のコンコースに装飾してある天井画はその中の一部ですが、中央の椿の絵は崋山先生の曾孫にあたる渡辺美代子画伯の筆によるものです。』
 これはレプリカではあるが、この天井が新駅舎には引き継いでいるという情報はネットでは探すことができなかった。おそらく掲載日現在は旧駅舎と共に撤去されてしまったということなのだろう。
 私は渡辺崋山のことについては某お宝発掘番組での高額お宝の画家として知っていたが、天保の大飢饉では領民から餓死者を出さない施策を行った田原藩の藩士で、蘭学を学び幕末は開国論者としての一面を持っていたということは知らなかった。ちなみに城宝寺は駅から徒歩5ほどに場所にあるそうだ。他に崋山が自刃した地である渡辺崋山幽居跡というのが駅から徒歩10分ほどの場所にあり、崋山に関する展示も行っている田原市博物館も幽居跡から徒歩5分ほどの場所にあるそうだ。
 
  【撮影日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 間もなく使命を終えようとしている3代目駅舎の前に掲出されていた、新駅舎切り替え期日を知らせる看板。切り替えが行われる日は、訪問の約3週間後であった。
 私は当駅が新駅舎の建設工事を進めているという情報を知らずに訪問したのでこの状況にちょっと驚いた。しかも別稿の写真にもあるように、新駅舎は外部の工事が終わって足場も外された状態であったので、新旧駅舎を比較して見られる機会を得られたのは、正に鉄道運が高い状態であったといえる。
 
【撮影日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 当駅を訪問したときは、線路の末端側では4代目となる新駅舎の建設が間もなく終えようとしていた。私はこの時駅舎の建設が行われていることを知らずに訪問しており、3代目現駅舎と4代目新駅舎を同時に見ることができるという、まさに鉄道運がかなり高い幸運に恵まれた。考えてみれば、多くの駅舎更新では旧駅舎を壊してから新駅舎を建てることが多いので、新旧駅舎の並立状態を見ることができるのは、全く無いことではないが、珍しいケースといっていいのではないだろうか。ただひとつ残念なのは、当駅の新旧駅舎は90度方向を変えて、若干離れた位置に建っていたので、並んで姿を拝むということわけにはいかなかった。それでも両方の駅舎を入れてこの写真を撮ってみたのだが…、3代目駅舎はの写りこみはどうしても小さくなってしまい、私にはこのあたりが構図の限界だった。新駅舎は撮影の数週間後から供用を開始しているが、竣工時期は2015(平27)年となっているので、供用を開始してから何らしかの工事(ホームなどの駅構内工事とかも含んでいる??)を15ヶ月以上は続けていたということになる。
 新駅舎をデザインしたのは、建築家の安藤忠雄氏。
 
【撮影日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 駅の末端部の様子。中央の線路が当時の1番線で、左に見える屋根付きのホームが後の新1・2番線ホーム(左側が新1番線)ホームとなる。
 後の竣工時には、使用していた1番線の場所に屋根無しの3・4番ホームができ、更にその右側にホーム無しの側線が1本加わることになるので、掲載日現在は計5本の行き止まり線が敷設されている。ただ竣工後も常に折り返し運転に使用されているのは本線から直線的に進入、進出できる2番線だけで、他のホームは夜間滞泊をする列車だけが発着するのみという贅沢な使い方をしている。駅構内を出てすぐ汐川の鉄橋があるということで線路の配置をこうせざるを得なかったことも理解できるが、もったいない気もする。現在の15分おきダイヤでは高師-老津 間以外で増発列車を設定するのは困難なので、しばらくはこの状況が続くのであろう。
 かつて1926(大15)年から1944(昭19)年までは、この先の黒川原までの線路が、4代目新駅舎の位置を突き抜けて伸びていた。この路線はその先も福江を経由して伊良湖岬方面まで延ばす計画があり、福江までは路盤工事が進められていたという。個人的には人家もまばらな黒川原という中途半端な場所までしか開業させなかったのは何でだろうと思うのだが、せめて黒川原から2kmもない次の駅の予定地で村を形成していた大久保まで開業区間が延ばせていたら、この延伸区間にも違う運命が待っていたのではないかとも考えてしまう。更に、もし全うに国鉄渥美線が開通していたとすると、当然渥美鉄道→名鉄の渥美線は国鉄に戦時買収ということになったのであろうが、もしこれが現在までJR線として生き残っていたら、どのような路線になっていたのだろうか。もしかしたら名古屋から直通する電車が走っていたかもしれない。だが現実は、当駅から先の国鉄線として建設された線路跡はほぼ道路に転用されている。
 全く"鉄"とは関係ない話なのだが、大久保というと、相方共々当市出身の女性お笑いコンビ芸人のことを思い出してしまう。
 
【撮影日:13.10.04./掲載日:20.09.18.】
 はまぼう編成が1番線に停車中。まあ当然の経過ではあるが、1番線だけはまだ工事の手が入っていない状態である。
 右端に、今は存在しない駅舎の横からの姿が見えるが、大柄な正面の姿から思うと、随分と幅が薄い印象である。

 ◆写真の列車情報◆ 1800形 1802F[はまぼう・写真先頭車はク2802] 1405着[普通]新豊橋 発<折返>1417発[普通]新豊橋ゆき (この訪問時の列車番号はいずれも不明)
 
   
 

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