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蒲原鉄道
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村 松 Muramatsu
   ●1998年10月
【購入日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 番号:0169。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 古い木造の上屋がいい感じだが、写真手前のペンギン形のゴミ箱が気になってしまう(笑)。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 駅舎は蒲原鉄道の本社との合造。雰囲気は昭和中期に建てられた役場のような感じだ。駅名は一応表示されているが、駅がそこにあるという感じではなかった。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 今となっては、写真のような大人券と小児券が別のボタンになっているタイプの自動券売機は、もうお目にかかれない種類のものかも知れない。
 機械の上部の表示部には、購入可能な切符の額面が表示されている。大都市圏だと路線図と共に金額表示されていたものだった。20個を2列に配したボタンだが、なぜか後ろ部分ともいえる右下の5つのボタン(写真では点灯してオレンジ色に見えているボタン)が自社線のボタンに振られており、他の15個のボタンは五泉より先の乗り換えたJR駅までの切符販売に割り振られている(写真では消灯し灰色に見えているボタン)。普通だったら、自社線の方を前の順番にすると思われるところだ。なのにJR駅までの方が先になっているということは、蒲原鉄道の利用客のほとんどが自社線内の移動で完結せず、JR駅まで行く移動が多かったということなのであろう。あと入場券の購入は最後のボタンに配されることが多かったが、ここではその点は対応されていなかった。ちなみに自社線の今泉と五泉までの切符はボタンの下に矢印で大書きされていたのに対し、JR駅の新津と新潟、白山までのボタンについてだけ小さく表示されていた。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 2番線に停車中のモハ41。上屋を支える柱には、1番線側にも2番線側にも「五泉方面」の表示が見られるが、梁から下げられた大型の表示は1番線側にしか「五泉方面」の表示が見られない。かつては2番線側にも同じような表示で「加茂方面」か何かしらの表示があったのであろう。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 駅から南に進んだところにある、当時の線路の村松側の末端部の様子。右に見える赤い架線柱の下には車止めがあった。かつては左側の道路を横断して加茂方面に線路が続いていたのだろう。しかしこの突然線路が途切れた“ぷっつん感”は、容赦がなく線路が断ち切られた印象だ。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 写真の車輛はモハ31。1952(昭27)年に、創業時から使用されていたデ1の電装品を利用してほぼ新製された。しかし書類上はデ1の改造名義になっている。外見はモハ41と似ているが、モハ31よりは車体長が短く、乗降扉も片面2枚となっている。鉄道廃止後も車庫跡にて保管されていたが、状態はあまり芳しくなかったためか、2008(平20)年に解体されてしまった。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 おそらく機械扱いであったであろう排雪車。写真正面側は雪をかき寄せて遠くに飛ばすロータリー機能付き。反対側は雪をかき分ける排雪板のみのラッセル機能のみとなっていた。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 見た目からも久しく放置されていることが判る車輛が車庫の端に置かれていた。
 この車輛はモハ12。1930(昭5)に路線が加茂-村松 間が延伸されたときに導入され、1985(昭60)年の加茂-村松 間の廃止と共に除籍されたモハ11形の3輛のうちの一輛。モハ11と(モハ13を改造した)モハ51の2輛は、除籍後によそで保存するために引き取られていったようだが、モハ12は除籍後そのまま13年間放置されていた、ということなのだろう。
 このモハ12は1978(昭53)年にワンマン化改造されたときに、子供でさえ出入りが不可能そうな極細の乗務員扉が取り付けられていたという。訪問からかなり後にそのことを知り、いまでもこの時にちゃんと見ておけば良かったなあと思っている。後悔先に立たずである。
 掲載日現在、モハ11は五泉市の村松城址公園に、モハ51は阿賀野市の安田民俗資料館で保存されているそうだが、写真のモハ12はおそらく解体されたものと思われる。
 
【撮影日:98.10.10./掲載日:15.05.15.】
 写真の両車輛とも西武鉄道からやってきた車輛である。
 写真右の車輛はモハ61。1930(昭5)年に武蔵野鉄道(現・西武池袋線系統)のクハ5856(片運転台)として誕生し、戦後に西武クハ1232→クハ1233へ2度改番された。クハ1232時代には運転台側半室がGHQ専用として使用された歴史がある。蒲原鉄道へは1958(昭33)年に両運転台化・電動車化の改造を西武所沢工場で受けた後に入線した。入線に際し、塗色は当時の西武時代そのままとされ、それ以来鉄道廃止まで蒲原鉄道の電車の標準塗色となったという。鉄道線廃止後は保存されて、現在は蒲原鉄道と関わりが深い冬鳥越スキーガーデンで姿を見ることができるらしい。
 写真左の車輛はモハ71。1927(昭2)年の武蔵野鉄道デハ1322(両運転台)として誕生し、戦後に西武モハ221に改番され、その後系式編入によってモハ215になった。1958(昭33)年に電装解除と片運転台化されてクハ1211となる。蒲原鉄道入りは1965(昭40)年で、その際に両運転台化・電動車化の改造を西武所沢工場で受けた。モハ71の特徴は、写真側の全面は原形を留めた細い貫通扉であるのに対し、反対側は増結が可能な幌と貫通扉を有した幅広なタイプであって、そちらにクハ10を連結していた。モハ71は蒲原鉄道に在籍した車輛の中で一番定員が多かった(112人)。こちらは鉄道線廃止後、末期は相棒的存在であったクハ10(国鉄キハ41120からの改造車)とともに個人の方に保存用として引き取られたが、2013(平25)年に解体されてしまったそうだ。
 余談だが、私はモハ71の狭い開通扉側の写真を見ると、どことなく小田急顔だよなぁと思ってしまう。
 
 

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