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大阪市高速電気軌道 御堂筋線
江坂 【次の掲載駅】 新大阪
東三国 Higashi-Mikuni
 ●2017年10月 訪問時 (大阪市交通局 時代)
【撮影日:17.10.14./掲載日:17.12.05.】
 車内から撮った駅名標。角の丸い長方形はなんだかお弁当箱のようだ。駅名標は日本の長い足で支えられており、なんだかちょっとした美術的オブジェのようにも見える。
 「三国」の地名の由来は、地区の北側に流れる神崎川が古来は三国川と呼ばれていたことが、事の起点になる。その三国とは丹波・山城・摂津を指しているそうだ。…と書くと自然の川のような感じがするが、桓武天皇が長岡京を造営するときに開削したという人工の流路部分もあったようだ。またこの付近には三国の渡しや三国橋というものがあったそうだ。1889(明22)年の町村制施行以前は(現在の東三国・西三国の町域は)蒲田村と宮原新家村という名前で、その蒲田村の中に"三国島"という地名があったようだ。ちなみに"蒲田"の名前は東三国駅の東にある神社の名前に残っている。町村制施行時に両村は他村と合併し西成郡北中島村として成立する。この時点で蒲田と宮原新家は大字の名前で、大字蒲田の中に小字三国島という地名が残されていた。1910(明43)年に箕面有馬電気鉄道(現・阪急宝塚本線)が三国駅を開業させるが、これが現在の地名に残る大きな転機になる。1925(大15)年に北中島村が大阪市東淀川区に編入されると、大字蒲田と大字宮原新地は三国町とすることになり、中でも商工業が集まっていた地域は三国本町と名乗ることになった。その後三国町は東西に分かれ、現在の三国本町・東三国・西三国の3つになったという。
 ということは、三国という地名が残ったのは鉄道のおかげともいえなくもないのだが、なぜ箕面有馬電気鉄道は村名ではなく小さな地域名を駅名に採用したのかが不思議である。
 
 

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