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JR東日本 青梅線
日向和田 【次の掲載駅】 二俣尾
石神前 Ishigami-Mae
 ●2016年5月訪問時
【購入日:16.05.02./掲載日:17.02.21.】
 
 
【撮影日:16.05.02./掲載日:17.02.21.】
 当駅は「楽々園」駅として1928(昭3)年に青梅鉄道(→青梅電気鉄道)が開業させる。楽々園は青梅鉄道が当駅最寄りの多摩川のそばに開園した遊園地の名前だそうだ。1944(昭19)年の国の戦時買収の際に、当時の自治体名である「三田村」駅に改称し、戦後の1947(昭22)年に現在の駅名になる。
 ちなみに三田村という自治体は、1889(明22)年の大合併の際に5つの自治体が合併して成立した村だが、そもそも"三田"という地名は存在していないようだ。ただ、戦国時代にこの地を治めていたのは三田氏という武将で、それが由来である可能性が高い。ちなみに三田氏は「軍畑」の地名由来にも関わっている。
 戦時買収時に駅名を「三田村」としたのは、戦時中に遊戯施設の名前のままにしておけなかったということと、もともと当駅は二俣尾地区の中にあるのだが、すでに隣に二俣尾駅が存在したので、やむを得ずこの名前を選択したのではないかと推測している。個人的には、別に東二俣尾でも南二俣尾でもよかった気がしないでもない。
 また三田村が青梅市に編入されるのは1955(昭30)年のことで、駅名改称の時期と一致しない。駅名の方が先に変わったのは、これも推測だが、三田村の中心でもないのにのに三田村駅を名乗ることに不都合があったのではないだろうか。三田村役場は当時の中心地である沢井地区にあり、現在でも沢井に青梅市の出張所(元の村役場の位置とは異なる)が存在する。
 しかしこの駅名標だが、JRにしては珍しく"し=SI"となっており、ローマ字の綴りがヘボン式になっていない。
 
【撮影日:16.05.02./掲載日:17.02.21.】
 2002(平14)年から供用が開始された駅舎は、他の青梅線の駅でも見られるような、駅施設の体質改善のために造られたシンプルなタイプ。周囲が緑で囲まれている雰囲気もGoodである。
  
【撮影日:16.05.02./掲載日:17.02.21.】
 駅舎の券売機周りの様子。窓口はあるが、シャッターが下ろされている。営業上は1971(昭46)年以来無人駅となっているが、臨時に開かれることもあるということなのだろう。
  
【撮影日:16.05.02./掲載日:17.02.21.】
 ホームのすぐ西側(奥多摩側)にある、その名も石神前踏切からホーム全景を撮影。時期はいつかは判らないが、ホームの嵩上げが行われていることが判る。
 
【撮影日:16.05.02./掲載日:17.02.21.】
 写真は10:30頃発 9004(?)[普通]青梅ゆき。この日の午前中は青梅-御嶽 間に臨時列車2往復が設定されていて、青461編成が運用に入っていた。
 臨時列車の前後に走る下り電車(定期列車)は御嶽までかなりの混雑を呈していたのだが、臨時御嶽ゆきは青梅駅での列車接続をとっていながらも乗客はがらがらだった。わたしは実際に青梅駅にいったときに初めて臨時列車の存在を知った次第で、駅での臨時列車の案内や掲示も不十分だと思わざるを得ない状態だった。せっかく列車を用意していても、案内が充分行き届いていないようでは空振りに終わる。実にもったいない。
 ちなみに上り臨時列車は、下り臨時列車のための回送運転のようなものということもあるが、2本ともがらがらだった(前後の上り定期列車の乗客もあまり多くは無かった)。
 これは私の想像だが、この臨時列車が設定されたのはゴールデンウイークの多客期ということもあるが、前のダイヤ改正で、平日の日中の青梅-奥多摩 間の列車本数が、30分毎から45分毎に削減されたことが理由になっているのかもしれない(休日の日中は30分毎のまま)。でも今回のように臨時列車の乗客が少ない事を、後々、臨時列車運転の取りやめの口実として使って欲しくないものだ。下り臨時列車については、ちゃんと周知さえすれば利用が見込める多客期臨時列車になるはずである。
 
【撮影日:16.05.02./掲載日:17.02.21.】
 石神前駅の駅名の由来となった「石神社(いしがみしゃ)」。石神社は駅のすぐ東側にあり、写真の奥に見える社殿の後ろ側を青梅線が通っている。(駅の位置は写真左方向)
 この写真の立ち位置のすぐ後ろには、青梅街道に出るための階段になっている。写真の枠内に鳥居を納めるのに苦労した。
 ちなみにこの写真の撮影前に、お参りは済ませている。
  
 

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