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東日本旅客鉄道 水郡線
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常陸太田 Hitachi-Ōta
 
【撮影日:04.10.10./掲載日:19.11.14.】
 
 
【撮影日:04.10.10./掲載日:19.11.14.】
 1927(昭2)年に建てられたという写真の東向きに出入口を持つ駅舎は、2010(平22)年以降に解体されている。そして東日本大震災で不通から復旧した2011(平23)年4月から新駅舎の供用を開始されている。新駅舎は(旧駅舎があった側とは反対の)線路の西側の末端に近い側に開設され、駅前ロータリーは線路の末端側の先に新たに設けられた。ネットなどで近年の駅やその周囲の様子を見ると、この写真とは同一の場所と思えないくらい様相が一転している。
 
【撮影日:04.10.10./掲載日:19.11.14.】
 駅構内を跨ぐ歩道橋の上から駅構内を見る。かつて側線を多く擁した駅構内だったが、その当時からも旅客ホームは1面1線のみのようだった。今は支線区間となっている上菅谷-常陸太田 間は10kmに満たないが、途中に列車交換ができるような駅は無い1閉塞区間なので、1編成の列車が入ってしまうと他の列車が入って来れないような状況になる。当駅の側線があった時代なら列車の入れ替えくらいはできただろうが、元来からダイヤ的にあまり融通が利かないことには変わりない。かつて上野から直通の常陸太田発着の[急行 奥久慈]が運転されていた頃、常陸大子方面発着の編成から1輛だけ上菅谷で切り離され、水戸発着の[普通]列車に併結されて常陸太田に発着するという、かなりトリッキーなことが行われていた。
 当駅は1899(明32)年に太田鉄道の本線の終点として開業している。太田鉄道としてはこれで目的は達したわけで、他の路線を画策していたかどうかは知らない。ただ後年、水戸鉄道(2代)に経営が移ると上菅谷から常陸大宮への支線が延びていくことになる。そしてそこから国鉄の大郡線がさらに延び、その後国に買収されて水郡線となっていく。自然地形的に見ると、常陸太田から北上して里見を経由し東館に抜けるルート(現行の国道349号・棚倉街道に沿ったルート)で郡山を目指すという手も無くもなかっただろうが、やはり人口的なことを考えると現在の水郡線ルートが選ばれるべきルートであったのだろう。
 今では支線格に落ちてしまった同区間ではあるが、当駅は水郡線単独駅の中では最も乗降客が多い駅だそうで、かつて本線であったという意地を見せているように思える。
 
 
【撮影日:04.10.10./掲載日:19.11.14.】
 線路の末端側からホームを望む。国土地理院の空撮アーカイブを見ると、旅客発着線が1面1線しかないのは昔から変わらないようだが、かつては複数の貨物側線があり、ホームの南側で行き止まっていたり、末端側から折り返してきて写真のホームの左側に入る線路も敷かれていたようだ。写真の位置で行き止まりとなっている線路は、300m以上先の茨城新聞常陸太田支局(掲載日現在)が入居するビルのある丁字路の交差点のあたりまで伸びていたようだ。
 
【撮影日:04.10.10./掲載日:19.11.14.】
 駅に停車中のキハ110系。この頃の水郡線の運用は全て常陸大子の水郡線営業所のキハ110系で運用されていたが、2007(平19)年からキハ130系への置換が行われたため、この光景も過去のものとなった。

 ◆写真の列車情報◆ 水スイ 110系 キハ112-117(+キハ111-117) 上菅谷ゆき (列車番号、時刻などは未確認)
 
 
 

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